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反原発運動、効果を考えたらいかが?=無駄な騒擾やデモを止め民主的手続きへの参加を

ブログ更新が滞ってしまいました。アゴラ11年10月13日掲載
しかし、デモも11年12月31日、まったく目立たなくなりました。ファッションだったのでしょう。
http://agora-web.jp/archives/1391820.html

■問題の多いデモという手法 


反原発デモが散発的に各地で起こっている。福島の原発事故を受けて、国民的の共有する怒りの表出であり、当然の現象かもしれない。私は人々の政治的意思を尊重するし、エネルギー政策への関心が高まることは好ましいことだ。しかし今の形のデモは無意味なばかりか、弊害も目立つ。
問題を3つの点で指摘したい。第1に問題の設定だ。反原発デモは「誰に」抗議をしているのか、分からない。現在の日本では原発依存のエネルギー政策を変えることに国民的な合意はできつつある。問題は「いつまでに」「どのような手段で」「誰の責任で」実施するかだ。一連のデモはそれらの論点への答えが曖昧でただ怒っているだけ。参加者は脳裏にわざわざ「推進派」という敵をつくり、自分で勝手にその妄想と戦っているように見える。結果として、デモが政治的意思の実現より、騒擾の面が強くなっている。

第2に、効果への疑問だ。デモとは国と民衆が対立するという19世紀的な古い世界観に基づく、古すぎる政治手法だろう。「アラブの春」でみられたように、独裁政府があり、国民に政治参加の道がなく、政権打倒という目的が明確であれば有効な手段かもしれない。しかし不十分な面はあっても、日本では選挙や議会という民主的な意思決定の手段がある。言論は原則自由だ。私たちとその父祖がつくりあげてきた日本の民主主義を無視して騒擾を引き起こすデモは、国民の多数の支持を集められないだろう。

「さようなら原発1000万人アクション」(http://sayonara-nukes.org/2011/09/0906seime/)というデモを煽る活動がある。並んだ人や組織の名前、さらに繰り返される主張は、チェルノブイリ事故直後の古新聞で見たものと同じで、読むとタイムスリップした感覚にとらわれる。少しは進化してほしい。国民の大多数に、反原発の主張が受け入れられなかった過去の経験を学ばないのだろうか。

第3の問題として、人々の善意が「プロ市民」に利用される気配が出ている。特定の団体が対立を無理にあおり、自らの存在のために利用しているように見える。60年代から70年代にかけて日本で繰り返されたさまざまなデモは、そうした政治集団が中心になったことで、多数の市民から嫌われた。それと同じ道をたどる気配がある。

例を挙げてみよう。「脱原発ポスター展」というイラストを募集しそれを持ってデモに参加しようと言う呼びかけがあるらしい。(http://nonukeart.org/tagged/children)その絵は醜悪だ。「子供が放射能を食べる」とか「子供に放射能を注ぎかける」などの絵は事実に反する。風評被害の加担であり、関与する人の人権感覚が疑われ、通常人が不快感を持つ。ごく一部と信じたいが、こうした異様な考えを持つ人々がデモに参加しているならば、賢明かつ冷静な日本人の支持を永遠に集められないはずだ。

政治勢力の関与も目立つ。弱小政党の社会民主党が反原発で騒ぎ始めている。多数の支持を集められない以上、騒擾によって存在感を示すことは同党にとって合理的な選択だろう。そればかりか過激派に属するような「プロ市民」らがデモの参加を表明している。9月11日の東京のデモでは逮捕者が出たそうだ。即座に釈放されたが、支援サイトがすぐに立ち上がった。皮肉を言えば、逮捕される人々は「逮捕慣れ」をしているようだ。(http://911nonukyuen.tumblr.com/)

■効果的な社会変革の道はある

デモよりも効果のある意見表明の方法は数多くある。一つが消費者として「買うお金に意思を込める」方法だ。現在はエネルギーの技術革新、具体的には自然エネルギー発電や省エネ機器の普及が爆発的に進んでいる。太陽光パネル4キロワット分(240万円前後)買い、さらにまもなく導入される電力買い取り制度を利用すれば10年で元を取れるだろう。ガスヒートポンプ(150万円)、家庭用蓄電池(数万円から)、電気自動車(三菱iミーブ260万円)なども市販されている。こうした機器を組み合わせれば、今から個人で「脱原発」ができる。

市民が組合方式で、風力、太陽光などの発電会社をつくる動きがある。ドイツでは1000社も発電事業者がいるが、その大半は地域住民が主導してつくった自然エネルギー発電組合だ。日本でもそうした会社やNPOが少しずつだができている。現時点での自然エネルギーはコスト面で競争力が乏しく、補助金頼りという問題がある。しかし市民が自らのエネルギーの未来を、自ら作り上げようとする態度は尊重するべきだ。電力会社が嫌いなら「原発から作った電気を買わない!」とタンカを切って、自己責任で電力を使わないでほしい。騒ぐだけでは何も解決しない。

意思を政治的手続きに落とし込む方法もある。新潟県巻町(現新潟市)の例を紹介したい。ここでは40年続いた東北電力の原発構想が2004年に取り下げられた。これは穏健な反対派の酒造会社経営の笹口孝明氏が町長に選ばれ、住民投票に持ち込み、「原発反対」と民意をはっきり示したためだ。同町は賛成反対で混乱していたが、笹口氏の努力により地域の平和は回復した。

その方策は次の通りだ。1.あえて原発反対を唱えず、純粋に町に原発がほしいかほしくないかを聞く。2.外部勢力の排除。3.反原発派のイメージの柔らかさ。集会は「集い」と呼び車座で、母親たちが積極的に活動した。 4.町の行政組織は可能な限り中立。5.用地買収前のすみやかな民主的手続き-これらの結果、反原発派が圧勝してしまった。

当時の講演で笹口氏は「どの立場の人も巻町に住み続けてほしい」と語っていた。今の反原発運動とは真逆の姿だ。どのような立場の人も、この良識ある行動を学んでほしい。

■対話による国民的合意形成の努力を

私は過去10年ほど、エネルギー政策、その裏にある地球温暖化対策を追ってきた。そこで残念に思うのは、国民の合意がエネルギー政策で作られなかったという事実だ。
(私の原稿「原発の未来、国民的合意の期待」:http://agora-web.jp/archives/1286644.html)
残念ながら、デモの延長に国民的合意があるとは思えない。そのために、私は今のデモに参加する「アマチュア市民」の方に訴えたい。その善意は尊重するが、デモだけでは何も生まれない。もっと効果のある手段や民主的手続きに参加してもらいたいと願う。そして私は「プロ市民」に訴えたい。仮に人々の善意を利用して、自らの「運動のための運動」に引きずり込もうとする邪念があるならば、それは恥ずべき行為だ。即刻やめるべきである。

私たちがエネルギーの未来を考える際に、今行うべきことは争いではない。福島事故の収束策への協力と、被害を受けた同胞に対する支援であり、痛んだ経済を電力の安定的な供給によって回復させることが喫緊の課題である。すべてが一段落した後で、エネルギーの未来についての国民的合意を作り上げることだ。

デモなどの感情的な反原発運動は一時的なもので、いずれ消えるだろう。しかしそれの引き起こす騒擾によって国内対立が強まること、さらにエネルギーの未来をめぐる国民的合意づくりが遅れることを、私は心配している。

石井孝明 経済・環境ジャーナリスト ishii.takaaki1@gmail.com

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